Urban Cinema Squad

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Urban Cinema Squad(UCS)は,徹頭徹尾「実践」を意識した映画系サイトである。実践とは二種類の「つくること」を指している。ひとつは,映画をつくること。そしてもうひとつは,映画をつくることをつくること,である。
映画をつくること自体は,実はあっけないほど簡単である。あなたは駅で切符を買い求め,ホームに立ち,到着する電車に向かってカメラを回せばよい。それをあなたの周りにいる人に見せれば,1本の退屈な映画ができあがる。「こんなの映画じゃない」という不届き者には,「いや,これは映画だから映画なのだ」とあきらめ顔で説明すれば──というか説明しないでおけば──,それで十分。
「いや,私はもっと洗練された映画をつくりたいのだ」とあなたは言うかもしれない。しかし,ある作品の洗練は,まさに上記のような「簡単さ」を条件としているのである。あなたは過去につくられた膨大な映画を参照することができるし,そこからなにがしかのコードを流用することができる。あなたは一から何もかもつくる必要はなく,いや,それどころかまったくつくる必要すらなく,膨大なアーカイヴとしての「映画」を使うことで,2,3年といった短期間で,あるいは数億円といった低予算で,洗練した映画をつくることができるだろう。あなたに代わって「映画」が映画をつくってくれるかぎり,そのコストはつねに徹底的に抑えられるのだから(その意味で,よく言われる映画への「愛」とは,実は映画が負担してくれたコストに対する「恩返し」という,現金なものにすぎない)
では,もうひとつの実践である「つくることをつくること」とは,どういうことか。「つくること」がこれ以上問わないこと,「AはAである」というトートロジーを受け入れることで成立するのだとしたら,「つくることをつくること」は,「つくること」を忘却することで成立する。それは使える技術を,完結したアイディアやノウハウを,ふたたび「なぜ?」という野蛮な問いへと開いていく試みにほかならない(「蒙(くら)きを啓(ひら)く」のではなく,「蒙きへ啓く」?)。あなたはいまいちど,映画との愛にあふれた現金な関係を清算し,まだ「映画」とは呼ばれていない行為の総体そのものを始めなければならない。
いまや悪い映画,間違った映画,野蛮な映画が「映画」へとプレゼントされるだ ろう。けれども,それは単に,よさや正しさ,洗練の欠如を意味しているわけではない。そうではなく,よさや正しさの根拠を要求するからこそ,それは悪いのである。はじめから与えられていることになっている「映画」に対して,ふてぶてしくも「いや,支払うのはオレだ」と宣言してしまうような映画をつくること,奢れる映画をつくること──そのかぎりで,UCSの「実践」は初めて実践されるといってよい。

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